「こうあるべき」という考え方は「止めるべき」←これおかしくね?
昔とある方から「あまり〝べき〟を使わない方がいいよ」と言われた。意識したことなかったけど、たしかに僕は〝べき〟をよく使っていた。もしも僕が博識なら、もしも僕が公明正大なら、べき論は説得力を持つのだろう。でも(残念ながら)博識でも公明正大でもない。
20代ならば許されるってのもあるよね。若気の至り、先走り、感情での行動。でも40過ぎてそれは痛々しいだけだ。また、僕は会社組織の中で出世した経験がないから、同年代の人を説得できる言葉を持たない。そんな人間の〝べき〟に何の価値があろうか。
ツイッターをつらつら見ていたら、Testosterone(テストステロン)氏のツイートが目に止まった。氏は、ありがちな悩みを「筋トレすればOK」で片付けてくれる面白い人。たしか本も出しているはず。
そんなテストステロン氏のツイートがバズっていた。
ううん?
「そうそう! べきべきうっさいわ! 自由に生きるべき!」と同調した瞬間、ふと違和感を覚えた。〝べき〟を否定〝すべき〟って、それ、バグってない?
最低限の社会規範はあるし、それが性別や親子といった、どうあがいても存在するものであればあるほど、人類が培ってきた〝べき〟は億兆の集合知ではないか。それを無視して自由に生きてしまったら、とんでもないことになるんじゃない?
〝べき〟とは規範や義務のこと。法で明文化されていない縛りのこと。規範から降りたところで別の規範が待っているので、完全な自由にはなれない。義務を負わないところに権利はやってこないからね。テストステロン氏の主張通り好きに生きてしまったら、「親としての規範は守らないけど、人として好きに生きる怪物」を産んでしまう。
女としての特権を維持しつつ女としての規範から離れようとするフェミニストが、急速に化け物扱いされだしたのも、これに近いんじゃないかな。
だからちょっと考え直した。〝べき〟は使ってもいい。ただし社会規範として成立するか、明確な義務として認知されているかを考えてから使う。「メーカーは羽根モノを作るべき!」「ホールは設定を上げるべき!」などは個人の欲望から始まっているため、駄目なんだな。
でもパチンコは回すべきだと思うよ?