映画・JOKERを見た。感想文は下手だけど何かを伝えたいから感想を書く
JOKERの主人公アーサーは、有形無形の暴力を受け続ける。憧れのスターからは笑いものにされ、カウンセラーは相談に乗らない。同僚からも、上司からも、街ゆく人々からも疎外され続ける。 身内すらも敵。孤独ではないにせよ孤立を極めた状況で、アーサーは「自分の人生は悲劇ではなく喜劇だ」と、笑った。
目には目を歯には歯を。暴力には暴力を。与えた罪と同じ痛みを犯罪者に課す考え方は、洋の東西を問わず存在する。日本だって〝量刑〟を定めており、残虐な刑罰を与えるかは別として、酷い犯罪者ほど長い刑罰を受ける。全ての国において、犯罪者は罰せられるのだ。
では〝社会〟はどう罰せられるのだろう。
2時間のドラマ中、観る者はひたすら苦痛を味わう。アーサーを追い込んだ社会構造の責任者は、一体誰なのか。ゆえに最後、アーサーがJOKERへ転じた瞬間の爽快感は尋常ではなかった。
劇中、彼は3人の銀行マンを射殺する。それを咎められるとこう言った。
「なんでみんな3人のことで騒いでるんだ? 俺が歩道で死にかけても踏みつけて歩くくせに。俺は毎日あんたたちとすれ違ってるが、誰も俺に気づかないよな。だけどあいつらは違う。少なくとも悲しんでくれる奴がいる」
これは〝無敵の人〟だ。日米で感覚は異なるけれど、通底する感情が同じ。示されているのは「社会は俺を守らないのに、なぜ俺が社会規範を守らねばならないのか?」という問いである。
評論家の橘玲は、JOKERの主人公は白人弱者なのがポイントだという。一般的に社会的弱者といえば、障害者、女性、子供、老人だろうか。アメリカならばこれに黒人が加わる。JOKERにはその全てが登場するものの、みんな主人公より少し恵まれているのだ。
「もはやアメリカの最下層は白人男性。若く貧乏な白人男性」
その痛烈な指摘は、弱者側で正義感に浸っていた、インテリ達の後頭部をしたたかに殴り倒した。彼らからすれば、自らの寄って立つ正義性(およびそこから生ずる陶酔)を剥奪されるため、JOKERのヒットは到底受け入れられないだろう。
橘玲の指摘は当を得ており、全面的に賛同する。日本においても〝こどおじ〟〝キモオタ〟は誰からも救ってもらえない。だってキモいから。役に立たないから。可哀想と思えないから。この「キモすぎて可哀想と思えない存在」が、アメリカならばアーサーのような若者なのだろう。物語は徹頭徹尾、アーサーのキモさを際立てていた。
実際、映画を見ていた人の多くは、アーサーを「気の毒」と思っても「可哀想」とは感じないのではなかろうか。あれが麗しき女子学生だったら、まず可哀想と感情が立ち上がり、積極的に助けたいと思うはずだ。しかし、妄想癖のあるキモい貧乏中年を可哀想と思える人はごく少数だろう。下手に助けると危害を加えられるかもしれないと、警戒すらするのではなかろうか。
物語のラスト。JOKERとなり、暴動を誘発したアーサーは逮捕される。しかし彼は精神病院で踊るのだ。死刑間違いなしの状況、未来を閉ざされた状況にもかかわらず、光に包まれた廊下で、楽しげに、はかなく、ユーモラスに踊る。それが映画の終着点であった。暴動を率いてゴッサムシティに君臨するのではなく、弱者のアイコンとして生きるのではなく、手錠をかけられた腕のまま、踊る。
妄想癖のあるアーサーゆえ、ひょっとしたら暴動さえも妄想だったのではないか、JOKERへと変貌を遂げるあの名シーンも妄想ではないかとも思った。しかし、暴動で親を失った子供の冷たい視線を見ると、ああ、彼がバットマンとなり、ゴッサムシティを〝浄化〟するのかと分かり安堵した。確かにアーサーは、いや、JOKERは存在したんだと。
犯罪者として、精神病患者として、アーサーは一生を終えるだろう。しかし彼は輝いた。生の手応えを得た。喜劇を演じきったのだ。序盤では泣いてるように笑っていたアーサーは、最後の最後で心から笑いきった。人生の価値に、笑った。
世の中は公平でも平等でも、公正ですらないのに、社会は自己責任の名の下で、努力が足りないのだと言い放つ。「見えない弱者(=汚いから見たくない弱者)」を突き放す。最初から同じスタートじゃない、努力ではどうにもならない差をつけられてるのに、何を言ってるんだろう。キモい弱者男性は誰も助けてくれないし、社会はどこまでも冷たい。なのになぜ、僕たちは誰かを助けねばならないのか、社会規範を守らねばならないのか。
「魂をいたぶる人間が富も名声も得る」
「不幸を強制する社会と、強制される人達がいる」
「嫌がると分かっていながら強要する連中が成功する」
「生まれた時点で負け組な、弱者にすらなれない人達がいる」
犯罪だから殺人はダメ。誰だって知ってる。でも、それを言う人達は、犯罪予備軍を助けようとするだろうか。社会は彼らを救おうとするだろうか。
そんな記事を何度かnoteに書いてきたため、JOKERは果てしなく痛快だった。何が痛快って、JOKERは世界的にヒットしたんでしょう? 日本も世界も、見えない弱者にとっては絶望しかないってことです。
救いの場所がないならば、自分で救うしかない。JOKERは〝自力救済〟の物語であり、世界中にJOKERがいるのだと確信できた。物騒な話なのに、僕は自身の考えが間違っていなかったと確信を持てた。痛快と感じたのは、そこです。
僕は幸福なことに、パチンコという武器(存在理由と言ってもいい)を持てました。世界のJOKER達はどうやって生きていくのでしょうね。そして社会は、どうやって彼らを止めるのだろう。少なくとも、事前に手を差し伸べることはないだろうという確信だけはある。